第1回のおはら祭が鹿児島で開催されたのは、昭和24年11月15日。市制施行60周年を記念し、市の発展を願って、戦後初めての“ちょうちん行列”で幕を開けた。初日は、仮装行列、デコレーションカーと山車のパレード。2日目は市内6ヶ所の仮設舞台で芸能大会。そして25日までの10日間にわたり、協賛大売り出しが行われた。
 現在、おはら祭の花といえば、さまざまな揃いの衣装で着飾った、おはら節・ハンヤ節の“踊り連”だが、おはら節の踊りのパレードが初めて登場したのは、昭和27年のこと。ただし、当時の踊りは、現在のように市民が各々グループをつくって参加する“踊り連”方式ではなく、婦人会を中心とする踊り手が一団となって市内を踊り歩くというものだった。
 昭和36年、徳島の阿波踊りを手本として“踊り連”方式を採用してから、おはら祭は飛躍的に発展した。“踊り連”方式によって、町内会や職場グループからの参加が急増したのだ。祭の性格も、当初の商工振興から市民レクリエーションへと様変わりした。
 その後、昭和38年には踊りの曲目にハンヤ節が加わり、明治百年の43年には西郷どん行列が登場。翌44年からは、開催日も11月3日・文化の日に確定した。そして、昭和48年、それまでの市内を踊り歩くパレード方式をやめ、現在のように歩行者天国で踊る祭へと姿を変えたことにより、おはら祭は南九州最大の祭に 発展したのだ。



■おはら節
「花は霧島 煙草は国分 燃えてあがるは桜島
 見えた見えたよ 松原ごしに 丸に十字の帆が見えた」

おなじみの“おはら節”であるが、そのルーツは、歌詞の中にも見える霧島連峰の南西麓、日向国安久の地(現・宮崎県都城市安久町)に伝わる安久節(ヤッサ節)であった。島津氏の琉球出兵に従軍した安久の郷士が歌うのを、薩摩の郷士たちが聴き覚え、鹿児島に持ち帰ったのだという。昭和9年に初めてレコード化され、そのとき現在の形にまとめられた。

■ハンヤ節
「はんや はんやで 今朝出した船は どこの港についたやら
 はんや はんやで 半年ァくれた 後の半年ァねてくらす」

ハンヤの意味とハンヤ節の発祥地については諸説あるが、長崎県平戸付近の田助で船頭たち相手の騒ぎ唄として生まれた「ハンヤ節」を元祖とする説が有力。これが一旦、東北各地のハエヤ節や塩釜甚句、越後・佐渡のおけさなどに発展し、九州・鹿児島に“逆輸入”されて鹿児島ハンヤ節になったのだという。



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