(来ない博士をじっと待つハチ公/作者不明) |
博士の遺留品を置いた物置に入ったまま3日間の絶食 大正14(1925)年5月21日の朝は、訪れる悲劇を暗示させる陰鬱な空模様でした。この日、博士を農学部に送ったのはハチ公だけ。
告別式が終わっても迎えに行く犬たち博士はその日、教授会を終えた後、農大の吉川教授の部屋に入り、一口二口お話をされていすに腰掛けたと思うと、そのまま逝ってしまわれました。まるでスイッチを切って電灯が切れたようにあっけなかったそうです。
ハチは博士の死を知らず、夕方農学部校門に行ったハチは暗くなるまで待ちましたが、博士は帰ってきません。 4日目の25日、通夜がしめやかに行われましたが、死の意味のわからないハチは、ジョンとSと一緒に博士を渋谷駅に迎えに行きました。
幸せな上野家の無惨な消滅 博士の急逝で、飼い主も飼い犬も有無を言わせず立ち退かれました。上野未亡人はどういう訳か、入籍されていませんでした。明治民法では、戸主(現在でいう戸籍筆頭人)以外の家族の婚姻は戸主の承諾が必要でしたが、裁判にかけて、代判決で戸主の承諾がなくても婚姻の認められる途は開かれていました。ところが思いもかけぬ博士の急逝。未入籍の妻への法的な保障は一切ありませんでした。
あちこちの家を転々とするハチ公 ハチとジョンは上野未亡人の親戚である日本橋伝馬町の堀越という呉服屋の家へあずけられました。上野未亡人はことあるごとにハチの様子を見に来ましたが、慣れない紐でつながれて思うように運動もできません。 ある日小僧さんがハチの紐をといて、嬉しくなって呉服屋の店内をとびまわり、品選びをするお客の後ろ姿を上野未亡人と間違えて飛びついてしまいました。 そんなようなことで日本橋にいられなくなり、次も上野未亡人の親戚にあたる浅草の高橋千吉さんの家に行くことになりました。高橋さんの家は床屋の椅子の製造・販売業だったといわれています。しかし、ハチのことから妬んだ付近との対立が起こり、ハチにとっては浅草は良くない思い出の町になってしまいました。
そして再び世田谷の上野宅へ帰ったハチ公。以前とはかなり様子が違っていました。そこにいたのは、上野博士の養女つる子夫妻とその子供たち。変わらず可愛がってくれて嬉しくなり、ハチははしゃぎます。 |
上野邸植木職人の小林菊三郎さんに引き取られる (ハチ公と小林菊三郎さん) 2年あまりのうちに、博士のいないハチの暮らしには悲しい別れがつきまといました。昭和2(1927)年の初秋、ハチは渋谷駅から20分ほどの距離にある富ヶ谷の小林菊三郎宅にうつりました。
上野未亡人は、ハチを手放したくありませんでした。懐かしい思い出のある渋谷駅を求めてやまないハチの心を、同じ悲しみを持つ者として良くわかりました。
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