さよならハチ公

さよならハチ公 さよならハチ公
(写真:死んだハチ公に辛い思いをさせてと涙する上野博士未亡人)

昭和10(1935)年3月8日午前6時過ぎ、ハチはその幸うすい一生を終えました。享年13歳でした。
ハチ公は、普段行かなかった駅の反対側、それも駅から離れた稲荷橋付近、滝沢酒店北側路地入り口でひっそりと死んでいたそうです。
ハチ公は死ぬ前に、懐かしい思い出のある町の人たちに、いちいちお別れの挨拶をすませて旅立ちました。
原因はフィラリア病がハチの心臓まで侵したせいです。
 
告別式 人と花輪で埋め尽くされた告別式

 生前一番親友の多かった渋谷駅へ運ばれると、上野未亡人や二代目飼い主の小林さん夫婦、そのほか町内の人々が押し寄せて、喪章をかけてやるやら、毛並みを撫でつけてやるやら、末期の水を口に塗るやら、チョコレートを供えるやら――
そのうち近所の妙祐寺からお坊さんが来てお経を上げる頃には、生前知己の仲だった少年少女たちがいろんな花を持ってきて、ハチ公は花輪に埋もれてしまいました。

 
ハチ公の剥製 動かないけど生きている

ハチ公の亡骸は、上野科学博物館へ寄贈され、本田晋さんの手によって剥製として永くその姿を残すこととなり、骨肉は懐かしい主人、上野博士の眠る青山墓地へと埋葬されることになりました。

ハチ公の胃の中には細長いヤキトリの串が数本突き刺さっていました。弱ったハチ公にはもう肉を取り外す力もなかったのでしょう。

 
第2の死 ハチ公第2の死

銅像となっても先生を渋谷駅で10年間待ち続けたハチ公に、第2の死が近づきます。昭和19(1944)年になり太平洋戦争が苦しくなってくると、民間の金属回収運動が始まり、とうとうハチ公も戦列につらなる日が到来しました。
ハチ公像は主に全国の小中学生からの募金でつくられており、しかも交戦国の非戦闘員であるアメリカの子供たちの募金も入っていました。それは純粋で小さなたくさんの心を踏みにじりました。

絶対にしてはいけなかったハチ公銅像の溶解は、やがて来る、この国の無条件降伏を暗示していました。
現在のハチ公像は、昭和23(1948)年の夏に、安藤照さんの息子さんが手がけました。

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